ぜんぶ

ぜんせいぶつの文章

映画『ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー』のやたら気合いの入った長ーいレビュー

どんなゲーム会社でもそうだけれど、その会社特有のノリというか、雰囲気みたいなものがあるよね。カプコンっぽいなあとか、フロム・ソフトウェアぽいなあとか、ロックスターゲームスっぽいなあとかとかベセスダっぽいなあとか、うわーカイロソフトっぽいなあああぁとか、あるあるある。任天堂だってそう。
個々人その感じ方に差はあるだろうけれど、任天堂のゲームは、私としては白々しいな、みたいに思ったりする。ゲームの物語だったりキャラクターだったりの細々した部分もそうだけど、なによりそれらどうパッケージするか、そういうゲームのあり方が、なんかね、白々しいなって感じるところが多い。

例えば、『ポケットモンスター』における人間とポケモンの関係性。ポケモンは人間に使役されている存在なのか、ペットみたいな存在なのか、はたまた互いに利益を享受し合う運命共同体的な関係なのか。このへん、新作が出るたびにちょっとずつ踏み込んだことをしている気もするけれど、基本的な部分は絶対にブレない。徹底的に明確にしない。記号的なままにとどめることに注力しているとすら感じられる。といっても、『ポケモン』はアニメや映画やマンガなどでその辺が描かれてきた(ミュウツーの逆襲とか)りもした。でもそういうものは、昔のできごとみたいになってきていて、今そんなの気にすることでもないよって感じがある。そういうの含めて全部白々しい。『パルワールド』がほとんど悪ノリみたいなかたちポケモンをパクって、意図せずそこに踏み込んだ結果、それなりに面白い体験ができるゲームだったのも、個人的には印象深いところ。

比較的最近の作品でも同じような白々しさがあるよ。『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』のストーリーを超要約しちゃうと、舞台となるハイラルでは遠い昔、天からやってきたゾナウ族が「うちらは優秀なのでこの地を統べますヨロ」ってことになっていい感じなってきた過去があるわけだけれど、そのことに唯一納得いかなかったガノンドロフという男の執念が時を超えて現代のハイラルで様々な災いを呼んじゃうって話。もちろんラスボスは蘇ったガノンドロフで、倒すべき相手として用意されている。でも、ガノンドロフの言い分もわかるくね?突然やってきた神みたいなやつがさ、いくら善良だったとしてさ、なにそれムカツクーってなるじゃんね、なんて私なんかは思う。しかもこのガノンドロフという男、ゲルド族で100年に一人生まれる男とかいう設定があって意味深なのだが、そこを深く考えていくとかなりモヤモヤした気持ちになる。

任天堂としては、そこはゲームだから、んな深く考えんで楽しんでくださいってことなのだと、私は解釈している。ティアキンはプレイ中、ほとんど同じような内容のストーリーに関わるムービーが4回も流れる(しかもスキップできない)。そういった映像はプレイヤーの没入感を高めるためのものとして用意されていない。むしろその逆で、開発者たちによってプログラムされたものとして振る舞い、プレイヤーにそう意識されるように配置されている。所詮はゲームなんだから、深く考えなくて良いのですよと、道を誤ろうとしているプレイヤーをそっと順路に導く優しさに満ちている。

そういえば、『MOTHER3』の発売日である2006年4月20日に行われたネット上の配信番組「伊集院光*糸井重里「MOTHER」トーク生中継」(https://www.1101.com/MOTHER3/20060420.html ←ここで ほうそう されていた!)で、『MOTHER』シリーズのファンである伊集院が、シリーズ愛を表すなかで「F(ファイナルファンタジーシリーズ)はFATHERだ」と言ったことがある。『ファイナルファンタジー12』が発売されて間もない時期の番組だったこともあり、両シリーズを比較しての発言で、伊集院の好みとしては父親のような厚かましさで映像やら音楽などをゲームで押し付けられるより、『MOTHER』のほうが良い、という文脈で用いられた。今振り返って、これは言い得て妙だなと思ったりする。父性的なものであれ母性的なものであれ、そのどちらでもないにせよ、ゲームはプレイヤーを導くように作られている。そして『MOTHER』シリーズだけでなく任天堂のゲームは、ファイナルファンタジーシリーズのようなプレイヤーの導き方とは、たしかに異なるように思う。それが母性的なものなのかは私にはわからないが、やはりそれはそれで独特な支配されている感覚が強くある。

ゲームはゲームたるべき、それ以上でも以下でもあってはいけない。任天堂にはそういう思想があるんだろうな、私はそう考えている。ここで言う「ゲーム」とは何か、それについて書くとあまりに長くなるのでここでは避ける。っていうか今の私には書ききることはできない。難易度高すぎ。任天堂が作っているゲームが、その「ゲーム」だというところで。

ちなみに『ピクミン』シリーズなんかは、これまで述べてきたような白々しさみたいなものがあんまりなくて、個人的に嬉しかったりする。1作目のオリマーの日誌みたいなテキストにある、ピクミンという生物に対する考察(利用されているのは私なのかもしれない・・・みたいなやつ)とかさ、SFっぽい設定のゲームだから生まれてくるんだろうけど、そういう視点は任天堂のゲームには珍しかったりするよね。

で、映画のはなし。『ザ・スーパーマリオ・ギャラクシー』をみた。これが、任天堂の白々しさだけで成立しているような映画でとても興味深かった。
白々しいって言葉が悪いかな。任天堂が提供するエンターテイメントに共通する「ルール」と言い換えられるかもしれない。ちょっと大胆なことを言うなら、そういった任天堂の「ルール」をゲームを通して私たちが学習したことを前提とした「ジャンル」が、映画の世界で成立しようとしている。そんなことを思わされる映画だった。大袈裟なことを言っているように思われるかもしれないけれど、アメコミヒーロー映画とか見たときに「そもそもヒーローってなんやねん」とか考える必要がないわけで(考え始めるアメコミ映画もあるけどね)、そういう強度を持ったりする枠組みが「ジャンル」と呼ばれるとしたら、任天堂が今回作った映画は、映画における新しいその枠組みが完成したのだと思えるものだった。というか、そう考えないと説明がつかないようなことが多かった。そういう感じ?

前作の『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』をみたとき、ふつう映画でやらないことを沢山し、ふつう映画でやることを全然していなくて、私はびっくり。え、まともに映画作る気あるの?とすら思った。まあ、個人的には全然面白くなかったってことなんだけれど、最近改めて見直して見ても、やっぱりそんな面白くなかった。でも映画でマリオをやるとはどういうことかが考え抜かれていたし、そのアプローチとしてこれが正解っぽい気もするな・・・、なんて思ったりもした。マリオのゲームをプレイするときの、こっからジャンプしてあそこに届くかな?みたいな感覚が映像に落とし込められていて、すごかったよね。でもまあ、ゲームやればよくね?とか思ったよ。様々な事情でゲームができない人に届くことが大事なのだろうが、まあ私の感想としては、そういう感じ。

個人的にすごく気になったのは、クッパやドンキーコングといったキャラクターの肉付けのされ方。劇場用の映画として成り立たせるために必要だったのはわかるけど、クッパはコメディとして処理するにしては嫌すぎる「男」性的なキャラクターになっているし、ドンキーはアメフトとかやってるの?みたいなアメリカのスクールカースト上位層の嫌なやつみたいなキャラクターになっていた(のちに良いやつになるけど)。
というかそうそう、前作のマリオはとても「アメリカ」の映画なんだよね。イルミネーションスタジオが作っているからそりゃそうなんだけれど、a-haとかAC/DCの有名な曲がばんばか流れて、マリオってアメリカのIPなんだなぁとか思ったよ。『キル・ビル』のサントラで有名な音楽が元々は『新・仁義なき戦い』だとか、そういう話はあんのかもしれないけどさ。とにかくアメリカだった。
そういう部分もあって、マリオってこういうことだったのかなあ、とか個人的に思ったわけ。今風に言えば、解釈違いみたいに思ってもらってかまわない。こんなこと気にしてる人のほうが少ない気もするし。

『ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー』は、そういった違和感が少なかった。挿入歌が前作よりかなり減っていたし、クッパの描き方もかなり穏やかに曖昧になっていた(てか、ドンキーコングはほとんど出てこなかった)。今作を見て改めて気づいたのだけれど、前作のアメリカ映画っぽい味付けと、任天堂のゲームが持っていた「ルール」(白々しさ)は、いろいろと衝突している部分が多かった。少なくとも、日本で生まれ育ち任天堂のゲームを親しんできた私からしたら、そうだった。前作が楽曲だったりキャラクターを肉付けすることで生まれていた(アメリカ的)社会性は、任天堂のゲームでは踏み込まない部分に抵触しているように感じたからだ。任天堂のゲームは社会を描かない、と言いたいわけではない。どちらかというと、アメリカのアニメーション映画には、ディズニーを中心として培われたエンターテイメントの作法としてその時々の社会を盛り込む歴史があり、そういった作法と任天堂がやってきたことは根本的に違うのではないか、という話、なのですよ。

そりゃまあ、ゲームとアニメだからさ、違うよね。という話でしかないのだけれど、ここにきてそうも言っていられなくなっている。だってこのシリーズ、映画だし。

今作のクライマックスの舞台は、悪役であるクッパジュニアが頑張って作った惑星まるごとテーマパークみたいなところで、そのテーマパークの中心にロゼッタが囚われているから、助けるゾっていう展開になる。テーマパークの中心にプリンセスがいる。そんなのさ、ディズニー(ランド)じゃんか。ウォルト・ディズニーが施設内の「ゴミ箱」の配置に非常にこだわったという有名な話があるが、この映画にも「ゴミ箱」がしっかり背景に描写されていたりする。そうやって、めちゃくちゃディズニー(ランド)を意識させる。
しかも、ロゼッタのプリンセスパワーを吸収して何か悪そうなことをしようとしている。構図としては囚われたプリンセスが搾取され利用されようとしている。それを助けに来るのはピーチ。これが例えばディズニーのアニメだった場合、これだけでも非常に強い政治的なメッセージだったりがたちあがるのだが、この映画はまったくそういうことにならない。

そもそもマリオの世界におけるプリンセスは、ディズニープリンセスのうすーいパロディみたいなものだったはずだが、シリーズが広がり続ける過程でプレイアブルキャラクターとして様々なゲームで登場し、バイクを乗り回したりスポーツに勤しんだり格闘だってこなしてきた。ディズニープリンセス的な役割のようなものは、はるか後方へしりぞきまくり。今作でピーチだったりロゼッタが格好よく戦うのは、それが単にそういうキャラクターだからだ。昨今の映画のトレンドを意識した政治的な描写ではなく、「そういうキャラクター」がらしく振る舞っているにすぎない。任天堂はそんな世界とそんなキャラクターを、慎重に育て続けてきた。

ディズニーアニメーションが長い歴史の中で度々アップデートしてきたプリンセスという存在は、2010年前後からより当時の政治的な問題と結びつきられ描かれることが増えた。人によっては進歩と見えたり迷走と見えたりするような紆余曲折は、未だに落としどころを探しているように見える。それはそれで立派な試みを続けていると個人的には思う。ほんとに。いろいろ不自由そうだなとかは思うけれど。えらいと思う。

で、任天堂はそういうことを、しないんだ、と今作で言い切った。
ここまでディズニー(ランド)を意識させる舞台や展開を用意しておいて、根本的なところでまったく違う事をしている。しかもそれは、任天堂が作り続けてきた「ゲーム」によって強固に支えられている。支えられることを示してみせた。
例えば今作を、ディズニーアニメーションの様々な作品と比較して、社会が描けていないとか、逆に描けているんだとか、あれこれ評することにはなんの意味もない。ピーチやロゼッタが女性なのに戦っていて現代的だ、とか言うことは無意味だし、クッパジュニアが父(クッパ)から学んだ結果プリンセスをさらうことに執拗にこだわることに関して、家父長制度的な批判をするのも無意味だ。それらは単に、「任天堂」のキャラクターだからそうなっていて、この映画が「任天堂」の映画だからそう作られているにすぎない。このような成立のさせ方は、前作ではアメリカ的な要素が多くてうまくできていなかったが、今作でかなり達成されている、と私は考える。「任天堂」というジャンルと呼べるような強固な枠組みが、この映画によって完成をしていませんかね。

そういう点で、この映画は超超超超・ちょー興味深くみることができた。だから面白かった。

ところで、この文章ではここまで、任天堂がゲームや映画を通して社会を描こうとしているのか否かについて、断定することを避けてきた。ディズニーのアニメがやってきたようなアプローチでは社会を描こうとはしていない、という表現にとどめてきた。任天堂は社会を描かないとか、べつに言っていない。がんばってそう書いてる。

私は、任天堂も何か別のかたちで社会を描いているのだと考えている。それは物語とか、キャラクターとか、私たちが他のメディアで読み解くようなものだけではない、まだ語られていない何かがあるのではと疑っている。おそらく、ゲームシステムとか、彼らの「遊び」に対する思想だとか、そういう部分に関係しているはずなのだが、しょうじき、わからーーん。

というか、巷にあふれる任天堂論みたいなもので、このような角度で考えているものがあまりにも少ない。たぶんだけれど、みんなもあんまわかっていない。わかるよってひとは、教えてほしい。まぢで。

「任天堂」には独特の語りにくさがある。それはこの文章で繰り返し触れてきたような白々しさ、優しさにあふれた支配、あといろいろがいろいろたくさんあって、語りにくい。そのいろいろについて具体的に説明すると角がたつので言わないけれど、そういう部分も語りにくい。任天堂がいろいろ頑張って語りにくいようにしているんじゃ、とさえ思う。怖い。

またむかしの話をする。
『星のカービィ』の生みの親である桜井政博は、2010年にこんなツイートをしている。

この分析があるていど正しかったとして、というか正しいから、マリオの映画は世界中でみられているのだろう。それじゃあ、この後どうなるのだろう。「社会」と関係ないとでも言いたげな、白々しいツイートだと思う。
ロッテントマト(プロの批評とかもあるアメリカのレビューサイト)的には映画批評家はさじを投げ、一般ユーザーが絶賛をしている状況だったりする。そういった乖離を放置することはよくないと思う。一応は、日本の企業である任天堂が作っている映画なわけだしさ、日本でこそ建設的な語り方ができそうな気もするじゃん。

でもなんか、マリオファン的には、この映画は「ギャラクシーって言ってるのにギャラクシー要素少なくてがっかり」みたいな反応で終わろうとしている気配がある。大丈夫かな。大丈夫だよ、きっと。

この文章、もう長くなりすぎて終わりたいんだけれど、本当は『スーパーマリオブラザーズ』というゲームがもともとは「アドベンチャーゲーム」として売られていたことと、今作で描かれるテーマパークを関連付けた文章するつもりだった。でも、「今の僕には理解できない」って感じであきらめた。けどね、なんでそんなことを考えたかっていうとね、こういう番組があったから↓

『大井昌和×さやわか×吉田とらじろう(+浅子佳英+東浩紀) 令和の物語消費とテーマパークの精神──ジブリ・任天堂・ディズニーはいまなにを売っているのか』
https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20251126

これを足がかりにしてさ、頑張って考えていきたい。
でも私、別に任天堂のゲームそんな好きじゃないんだよな。好きなやつが考えてくれたらいいのに。